西ノ京駅を降りると、すぐ右の奥に進むと、薬師寺の門
入ると拝観受付所がある
実は、正門は、そのもっと右奥にある南門です
南門を正面に、金堂とその両脇に東塔と西塔がある
荘厳のひとこと!
薬師寺の全体像をつかむのに時間がかかった
反対側の北門までは、かなりの距離がある
薬師寺(やくしじ)
680年、天武天皇は、皇后の病気平癒を願い、藤原京に寺を造り始めた
これが薬師寺である
程なくして皇后の病は治った
686年になると、今度は天武天皇が病み、そのまま亡くなった
皇后(鸕野讚良皇女(うののさらさのひめみこ))は、あとを継いで即位(持統天皇)し、未完成だった薬師寺の造営を続けた
698年には、薬師寺は、ほぼ完成
本尊の薬師如来像は、この時までに完成していたという
710年に、都は藤原京から平城京へ
薬師寺も、藤原京から平城京へ
本尊の薬師如来像も、平城京へ移されてきた
7日も、かかったという
金堂(こんどう)
昭和51年(1976)再建
古代の人々は薬師寺の建物は他等とは違い、「龍宮の様」に造られたと考えていた
金堂に入ると薬師三尊像
中央に薬師如来、向かって右に日光菩薩、左に月光菩薩
至高の金銅仏の群像である
当初の金堂は、室町時代に兵火で焼失した
日光菩薩と月光菩薩はそれぞれ中央に向かって倒れ、薬師如来にもたれかかっていたという
焼失した光背は江戸時代に木で新造された
薬師三尊像(やくしさんぞんぞう)
奈良・薬師寺(やくしじ)
国宝
銅造
像高(中尊)254.7㎝
白鳳時代 7世紀
薬師如来は堂々とした体に薄い衣をまとい、肉体の柔らかな起伏がうかがえる
衣の裾(すそ)が台座にかかり、美しく流れ落ちている
理想的な体つき、うねりをつけた両眼、力強い鼻、締まった唇、優しそうにもきびしそうにもみえる
手足に文様があるのは千輻輪相(せんぷくりんそう)といい、仏の特徴のひとつである
右手は、親指と人差し指の先を合わせる印を結んでいる
銅で鋳造された薬師如来は、四角い宣字座(せんじざ)にゆったりと坐っている
東塔の銘文に「巍巍蕩蕩(ぎぎとうとう)」(大きくておごそかで広くてゆったり)とあるのにふさわしい
台座には、葡萄唐草文(ぶどうからくさもん)や、東西南北を護(まも)る四神(しじん)(青龍・朱雀・白虎・文武)が表されており、不思議な人物が表されている
東塔(とうとう)
国宝
白鳳時代
創建当時より残る唯一の建物
六重に見えるが、三重の塔
西塔(さいとう)
昭和56年(1981)再建
初塔の内陣の東西南北に、中村晋也氏のお釈迦さまの降魔成道・転法輪・涅槃・仏舎利の像に見入ってしまった
法隆寺の五重塔の初塔のお釈迦さまの涅槃像と、その周りの弟子たちの阿鼻叫喚の像は、もちろんスゴイが・・・
東院堂(とういんどう)
国宝
鎌倉時代
聖観世音菩薩立像(しょうかんぜおん ぼさつ りゅうぞう)
国宝
白鳳時代
聖観音像は、伸びやかで、よく引き締まった体で、青年を思わせる若々しい表情をみせる
689年に持統天皇の子、草壁皇子が亡くなった時、冥福を祈り、造らせたと考えられている
大講堂(だいこうどう)
平成15年(2003)再建
弥勒三尊像(みろくさんぞんぞう)安置
仏足石・中村晋也氏の釈迦十大弟子が祀られている
食堂(じきどう)
平成29年(2017)再建
内部は現代アート
玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)院伽藍
平成3年(1991)建立
玄奘三蔵の像があったが、少しげっそり
イケメンじゃない
長い間、薬師寺は東塔と東院堂だけだったそうだ
昭和42年に、故管主が薬師寺の再建のために、東北の方まで歩き、1,000円で写経を書いてもらい
その集まったお金で再建
その写経は、金堂の上部に、みっちり納められているらしい
そして写経は、まだまだ続く
白鳳時代、鎌倉時代、昭和、平成・・・そして令和も何かスゴイものが誕生しそうだ