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鮮やかな秋 馬籠宿(岐阜)から妻籠宿(長野)を歩いたよ

投稿日:2018年11月13日 更新日:

秋201810年以上前に、妻籠宿と馬籠宿を訪れたときに、また、ゆっくり訪れたいと願った。
今回も、ゆっくりは出来なかったが、馬籠宿から妻籠宿、紅葉の山道を歩いた。

歩きやすく整備されていて、ときおり道に迷うこともあったが、道標は注意深く捜せばあり、小さなトイレも、各地点にあった。

熊を寄せ付けないための鐘が、山道にずっと設置されていて、鳴らすのも楽しみの一つだった。

全ての地図で、左から右に歩き進みました。

馬籠宿(まごめじゅく)

木曽11宿の一つ(中山道43番目)で、美濃との境にあります。
急な坂道の両側に石を積んで家を建て、宿場の中央には本陣(大名や旗本、幕府役人などの宿泊所)、脇本陣(本陣の予備施設。大名や勅使などの利用がないときは一般客も宿泊した)、問屋(江戸時代の問屋は、宿場町の自治行政を行う役人で、本陣の経営者)などが、おかれて宿泊に備えられたほか、旅籠や飯屋が軒をならべていた。

島崎藤村の「夜明け前」の主人公である青山半蔵が見た美しい恵那山(えなさん)を眺望することができます。

通りの中央は石畳が敷き詰められ、両脇には格子のある民家、資料館、茶屋、土産物屋など、江戸時代を彷彿とさせる家並みが連なります。
標高600m

島崎藤村(しまざき とうそん)
浪漫派詩人として「若菜集」などを刊行。さらに小説家として「破壊」「春」などで代表的な自然主義作家となった。
ほかに、日本自然主義文学の到達点とされる「家」、父をモデルとした歴史小説「夜明け前」など。

馬籠峠(まごめとうげ)

宝暦12年(1762年)の大火以来、災害を免れ現在に至る峠の集落には、江戸時代の貴重な建築遺構が多くのこされている。かつては馬方や牛方衆の宿として、にぎわった集落です。

南木曽待ちと中津川市の境をなす峠。

峠の御頭に「白雲や青葉若葉の三十里」という正岡子規の句碑があり、眼前に東濃の平野が広がります。左手には恵那山が見えます。
標高801m

一石栃(いちこくとち)白木改(しらきあらため)番所跡

無料でお茶をいただけ、休憩できます。

妻籠宿・馬籠宿の中間点にある、一石栃 白木改番所跡の立場茶屋(たてばじゃや-宿と宿の中間にある休憩所)。
明治2年まで、木曽五木(ひのき・さわら・あすなろ・こうやまき・ねずこ)などの伐採禁止。木の出荷統制を行っていた。

男滝・女滝(おだき・めだき)

涼やかな水しぶきをあげる男滝・女滝。
宮本武蔵が修行したとの伝説があり、吉川英治の小説「宮本武蔵」では、武蔵とお通の情念の恋の場として登場する。

滝壺に金の鶏が舞い込み、そこから時を告げる鶏の声がしたという倉科様伝説が伝わっている。
標高600m

 

倉科祖霊社(くらしなそれいしゃ)

松本城主小笠原の重臣、倉科七郎左右衛門が大坂の豊臣秀吉への使いの帰りに、馬籠宿で土豪たちの襲撃にあい討死して霊が祀られている。

藤原家住宅(ふじわらけ じゅうたく)

17世紀半ばの古い建築で長野県宝に指定されている。

大妻籠(おおつまご)

中山道と飯田街道の分岐点として栄えた所で、碑は明治14年(1881年)に飯田・近江・地元の商人に寄って建てられたもの。

妻籠宿の南の集落で、古民家が軒を連ね、ひときわ大きな袖卯建(そでうだつ-二階の軒下に張り出した火柱、防火壁、装飾)のある出梁(だしばり)民家が風情豊かな景観を作り上げてるそうな。

 

妻籠宿(つまごじゅく)


明治になり鉄道や道路が新たに造られ、宿場としての機能を失った妻籠宿は衰退の一途をたどった。
やがて昭和四十年代になり集落保存と景観が修復され、妻籠宿の町並みが見直された。
妻籠の人たちは町並みを守るために「家や土地を売らない・貸さない・壊さない」を中心とした住民憲章をつくり、ここで生活しながら、江戸時代の町並みという貴重な財産を後世に伝えている。

中山道42番目の宿場
妻籠宿は中山道と飯田街道の分岐点に位置し、古くから交通の要所として栄えました。昭和51年に国の重要伝統建設物保存地区に選定され、全長約500mの町並みは江戸時代にタイムスリップした感じで、どれも当時の面影を残し、懐かしさと郷愁を感じる情緒いっぱいの宿場町です。
標高430m

上嵯峨屋(かみさがや)
昭和44年の解体復元によって18世紀中期の木賃宿(きちんやど-泊まり客が自炊し、燃料代だけ払うしくみの宿)であることが分かった。

下嵯峨屋(しもさがや)
当初、長屋であったものです。
妻籠宿における庶民の住居を代表する形式をとどめている。

石仏(せきぶつ)「寒山拾得(かんざんじっとく)」像

国内唯一とされる。
双体像は他に類例がない。

「寒山拾得」とは?
中国、唐の伝説上の2人の詩僧侶。
「拾得」は、豊王禅師に拾い養われた。
「寒山」は、国清寺近くの寒山の洞窟に住んでいた。
自然を楽しむ歌や、世俗や偽善的な僧を批判するもの、人間的な悩みものなど多彩な内容の詩を作った。

延命地蔵(えんめいじぞう)

文化10年(1813年)、光徳寺住職・内外和尚が、地蔵尊像の浮かび上がっている岩を蘭川(あららぎがわ)から運んできて安置した。

光徳寺(こうとくじ)

石垣を築き、白壁をめぐらせた気品ある寺で、明応9年(1500年)に開山されたといわれている。

郵便資料館

島崎藤村の「夜明け前」にも開局当時の様子が描かれている。
全国で唯一の黒いポストが復元されている。
土・日・祝は休館。

妻籠宿ふれあい館
無料休憩所

枡形(ますがた)の跡

宿場は幕府の防塞施設として造られていて、敵の侵入をはばむために道を直角に折り曲げるように造ってある。

南木曽町博物館

妻籠宿本陣(つまごじゅく ほんじん)

妻籠宿本陣には島崎氏が任命され、明治に至るまで本陣、庄屋を兼ね務めました。
島崎藤村の母の生家で、次兄宏助が養子に来ています。平成7年(1995年)に復元された。

脇本陣奥谷(わきほんじん おくや)

代々脇本陣・問屋を務めた家で、現在の建物は明治10年(1877年)に建て替えたもの。
また、島崎藤村の初恋の相手「ゆふ」さんの嫁ぎ先でもあります。
国の「重要文化財」に指定されている。

御禁制だった木曽絵を豊富に使った重厚な構造。代々脇本陣を務めた林家住宅を南木曽町が借り受けて公開。

歴史資料館
南木曽町や木曽路の歴史、町並みなどの資料を模型や映像を用いて展示している。

1995年開館、脇本陣奥谷の裏庭にある。

高礼場(こうさつば)


幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目を引くように高く掲げていた。

熊谷家住宅(くまがいけ じゅうたく)
19世紀初頭に建てられた長屋の一部。
左右の半分ずつが一軒の家として使用されていた。

口留番所跡(くちどめばんしょあと)
17世紀半ばまで関所が置かれていた。
関所の小規模なものを「口留番所」といった。

鯉岩(こいいわ)

大きな鯉の形をした岩で中山道三名石の1つだったが、明治24年の濃尾大地震で、形が変わった。

 

アクセス
電車とバス
名古屋駅→「中央本線JR(約1時間)」→中津川駅→「バス(25分)」→馬籠宿


中央自動車道→中津川I.C→国道19号→馬籠宿(中津川I.Cより約20分)

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