楊貴妃観音(ようきひかんのん)に期待して訪れた泉涌寺(せんにゅうじ)だが
近くで観ることが出来なかったのでガッカリ
でも、
三世仏(釈迦如来(しゃかにょらい)・阿弥陀如来(あみだにょらい)・弥勒如来(みろくにょらい))と、仏殿との荘厳さには言葉が出ないほど感動しました
泉涌寺の塔頭が庶民信仰の七福神
もしくは九福神信仰の場ともなった
その巡り方は、まず最初に即成院で福笹を受けとり、
福禄寿(即成院)→
弁財天(戒光寺)→
恵比寿神(今熊野観音寺)→
布袋尊(来迎院)→
大黒天(雲龍寺)→
毘沙門天(非田院)→
寿老人(法音院)と進む。
さらに番外として、
愛染明王(新善光寺)と
楊貴妃観音(楊貴妃観音堂)を含めれば、九福神になる
御寺・泉涌寺(せんにゅうじ)
鎌倉時代、宗で学んだ俊芿(しゅんじょう)が仙遊寺(せんゆうじ)の地に宗風の伽藍を再興
泉涌寺は、天皇家の菩提寺として名高く、「御寺(みてら)」とも呼ばれてきた
霊泉が湧いたので、寺号を「泉涌寺」としたと伝えられる
JR京都駅の東南にあたる(京都市東山区)
京都盆地の東に連なる東山三十六峰(さんじゅうろっぽう)の一つにも数えられる月輪山の山麓に位置する
俊芿(しゅんじょう)
肥後国(現在の熊本県)に生まれ
鎌倉時代、南宋に足かけ十三年も留学して、天台宗を学んで帰国した俊芿(1166-1227年)
鎌倉時代の初期は、日宋貿易が盛んだった背景もあって、南宗に留学して仏教を学び、先進技術を身につけて帰国し、日本の仏教界に新風を吹き込んだ人物
泉涌寺の伽藍は全て宗風に造立された
大門
重要文化財
「御寺」の名が掲げられた泉涌寺の大門
慶長内裏の門を移築した四脚門
四条天皇(しじょう てんのう)
四条天皇はわずか二歳で即位し、若干十二歳で不慮の事故により崩御(ほうぎょ-死んだ)した
1242(仁治3)年正月、四条天皇の葬儀が泉涌寺のおいて営まれ、後堀河天皇と四条天皇の陵墓が泉涌寺内に築かれたことから、泉涌寺は天皇家の菩提寺となった
以来、南北朝時代から明治維新直前の孝明(こうめい)天皇に至る歴代の天皇と皇后の葬儀は、すべて泉涌寺において営まれ、その陵墓もまた泉涌寺に築かれてきた
まだ言葉もおぼつかない幼年の頃、四条天皇は「自分の前世は俊芿(しゅんじょう)だった」とはっきり語ったというのである
仏殿(ぶつでん)
重要文化財
創建時の伽藍は、室町時代に起こった応仁の乱の最中にそのほとんどが失われてしまった
1668(寛文8)年に四代将軍徳川家綱(とくがわ いえつな)によって写真の仏殿を含めた諸堂が再建され、現在に至っている
三世仏(釈迦如来(しゃかにょらい)・阿弥陀如来(あみだにょらい)・弥勒如来(みろくにょらい))
あんぐり言葉が出ないほどスゴイ
荘厳な仏殿の真ん中に三世仏(さんぜぶつ)のみ
三世仏の上、仏殿の高く積み上がっていくような構造の一番高い所には、有名な狩野探幽(かのう たんゆう)筆の雲龍
この仏殿には、この三世仏しかない
この三世仏には、この仏殿しかない
重要文化財
本尊「三世仏(さんぜぶつ)」
中央は、右手に施無畏印(せむいいん)を左手に与願印(よがんいん)を結ぶ釈迦如来
向かって左は、定印(じょういん)を結ぶ阿弥陀如来
向かって右は、右手に施無畏印(せむいいん)を左手に触地印(しょくちいん)を結ぶ弥勒如来
作者は運慶と伝えられる
泉涌寺の「三世仏」の場合は、釈迦・阿弥陀・弥勒の三仏で過去世(過去)・現世(現在)・来世(未来)の教主を表わすとされる
泉涌寺仏殿の配置は、俊芿(しゅんじょう)が留学した当時の宋の仏教に由来すると考えられている
創建/1218(建保6)年
本尊/三世仏(釈迦如来,阿弥陀如来,弥勒如来)
宗派/真言宗
住所/京都市東区泉涌寺山内町27
拝観時間/
3月~11月 9:00-16:30(閉門17:00)
12月~2月 9:00-16:00(閉門16:30)
アクセス
電車
JR奈良線 東福寺駅→徒歩20分
京阪 東福寺駅→徒歩20分
市バス
JR 京都駅 208番→「泉涌寺道」→徒歩15分
近鉄 東寺駅 207番→「泉涌寺道」→徒歩15分
202・207・208番→東向き運行(循環バス)→「泉涌寺道」→徒歩15分
車
阪神高速「鴨川西出口」→7分