90%早朝から雨の予報だったが、朝から海に架かる虹と、青空が所々に・・・
大鳥居の修繕・塗装のために、しばらく見られないというので、初めて宮島に出かけた。
宮島の歴史は今から約六000年前、うっそうとした原始林に霊威(れいい)を感じ、海を隔てて信仰された。
島そのものが信仰の対象で、島内に人が住むことを禁じ、神職といえども島に渡るのは祭祀(さいし)の時のみ。
鎌倉から室町時代にかけては、人が住むようになったが神域を傷つけるような、農耕、機織は禁止、出産や葬儀に関しても禁忌(きんき)が存在し、近代にも受け継がれた。
厳島(いつくしま)という名前の、神を斎(いつ)き祀(まつ)る意味の『斎島(いつきしま)』に由来する。
今では「お宮さんのある島」という意味から『宮島(みやじま)』と称されることが多い。
大鳥居(おおとりい)
別名『朱の大鳥居(あけのおおとりい)』宮島のシンボル。
そして『日本三大鳥居』の一つ。
平清盛(たいらのきよもり)が造営した『平安時代の最新型の鳥居』。
両部鳥居(りょうぶとりい)
宮島は、島全体が「神」と信仰されていたため、宮島の地を傷つけてはならないと、海に大鳥居が建てられたそうな。
大鳥居は、鳥居自体の重さで立っているだけで、満潮時や波が荒い時には浮くこともあり、倒壊するのを防いでる。
平安時代の創建当初は、巨大で重量のある横木一本で、鳥居が浮かなかったが、今はそんな巨木がない為に、箱型にした「笠木」と「島木」に約7トンの人の頭ほどある玉石を入れて重しにしているらしい。
海に浸かっている部位が腐食すると、「根継ぎ(ねつぎ)」と呼ばれる技法で、腐食した部分を切断して別の木を接ぎあてるようだ。
主柱を「楠(くすのき)重い・腐食しにくい・虫つきにくい・強い」、袖柱を「杉(すぎ)水に強い」という別の木材を使用することで倒壊を防いでる。
耐用年数も「主柱」だけだと20年だが、「袖柱」を2本づつ据えることで約80年間は持つ。
柱の足元の底部分に「花崗岩(かこうがん)」が敷かれいる。
その花崗岩は、宮島で採掘されたもので「弥山」へ登山したらゴロゴロころがっていて、「奇石(きせき)」と呼ばれるイビツな巨石もゴロゴロ、ますます登りたくなった。
花崗岩を加工したものが、お墓の「御影石(みかげいし)」です。
嚴島神社(いつくしまじんじゃ)
本殿(ほんでん)
この本殿に祀られているのは、
須佐之男命(すさのおのみこと)の剣から生まれた女神。
市寸嶋比売命(いちきしまひめ) 市杵島姫命
『神霊のよりつく島の姫』
多紀理琵売命(たきりびめ) 田心姫命
『海上の霧』
多岐都比売命(たきつひめ) 瑞津姫命
『水が激しくたぎる』
三女神が「我を厳島明神として崇うべし」と厳島を気に入り鎮座したそうな。
筑前(ちくぜん)の海人豪族(あまごうぞく)の宗像(むなかた)氏が祀っていた航海の守護神。
客神社(まろうどじんじゃ)
祭礼の時、厳島神社では、まず客神社で祭典を行う。
この客神社に祀られているのは、
天照大御神(あまてらすおおみかみ)の珠から生成した五男神、
天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
『皇統に連なる神』
天穂日命(あめのほひのみこと)
『農業の神』
天津彦根命(あまつひこねのみこと)
『日、雨、風、火難除けの神』
活津彦根命(いきつひこねのみこと)
熊野久樟日命(くまのくすひのみこと)
五神は客神(まろうどがみ)で、よそから霊力を持って、土地の氏神の力を強めると招き入れられた。
宗像三女神と五柱の男神の誕生
伊邪那妓(いざなぎ)の神は三人の子
天照(あまてらす)と月読(つきよみ)と須佐之男(すさのお)に それぞれ
高天の原(たかまのはら)と夜の国と海上を治めさせたが
末っ子の須佐之男(すさのお)は
素直に言いつけを守るような神では なかった。
仕事も ろくにしない荒くれ者。
始終 地団駄を踏んで泣き叫ぶ。
その声は さながら
山を揺すって木々を枯らし、
海を沸き立たせて ついには
干上がらせて しまうほどの激しさである。
その せいで
世の中は、次第に荒れていった。
「一体どのようなわけで
おまえは仕事もせずに
泣きわめいたりするのだ」
伊邪那妓(いななぎ)が尋ねると、
須佐之男の命は答えた。
「わたくしは母上が恋しくて なりませぬ。
亡き母上が おられるという
黄泉の国(よみのくに)へ行きたくて・・・」
それを聞いて、伊邪那妓(いざなぎ)は腹を立てた。
「好きに するが よい。
とっとと、この国から出て うせろ」
「では、姉上に理由をお話してから
おいとま させて もらいます」
そう言い残すなり、
命は高天の原へ駆け上った。
命(みこと)が近づくにつれて
高天の原は、荒れ模様になってきた。
山は鳴り河は騒ぎ、
地鳴りがとどろく。
姉の天照大御神(あまてらすおおみかみ)は
「弟は きっと
海を治めるだけでは物足りなくて
わたしの国を奪い取るつもりなのだ」
そう思いこみ、
戦の姿に身なりをかえて
待ち かまえた。
そこへ現れた須佐之男の命(すさのおのみこと)は
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を訪れた理由を話したが、
姉は なかなか信じようとしない。
そこで命は
自分の心に嘘偽りのないことを
伝えるために
こんなことを申し出たのである。
「では、姉上と わたくしとが
子どもを生むことに いたしましょう。
それぞれの作った子を見て
どちらの心が正しいか決めるのです」
はじめは天照(あまてらす)の番であった。
姉は弟の剣を打ち折って
井戸の水で清めると、
口に含んで噛み、ふっ~と吹きだした。
と、その息の中から
三人の女神が生まれた。
次に須佐之男の命(すさのおのみこと)は
姉の髪飾りをもらい受けると、
清めた後に噛み含め
同じように吐き出すと、
男の神が生まれた。
さらに、他の髪飾りから次々と
四人の男神(おがみ)を世に送り出した。
それを見て天照(あまてらす)は言った。
「初めの三人の女の子は、
おまえの持ち物から生まれたので
おまえの子です。
後から生まれた五人の男の子は、
わたしの持ち物から生まれたのですから
わたしの子です」
「では、この勝負はわたくしの勝ちだ」
須佐之男は、おたけびを上げた。
「心優しい女の子が生まれたのは
わたくしの心が正しい証ですぞ」
能舞台(のうぶたい)
海上に建っているため、通常、舞台下に設置されている共鳴用の甕(かめ)がない。
一枚の床板が、太鼓の皮のような役割で、音が大きく響き、潮の干満(かんまん)で音の響きが変わる演出。
神主佐伯氏(かんぬし さえきし)
安芸国(あきのくに)の佐伯郡で大きな勢力を持った豪族で、佐伯郡を統治しながら、厳島神社を祭祀(さいし)権も掌握していた。
佐伯氏が釣りをしていると、西から紅の帆を掛けた立派な舟が現れた。舟に乗っていた姫君は、鳥の神だと名乗り、御殿の建立を依頼。
姫君が高天の原(たかまのはら)から連れてきた神鳥が団子をくわえて舟を先導し、厳島まで案内した。
内侍(ないし)
厳島神社の巫女(みこ)。
神主の補佐役を務め、神事では神楽(かぐら)などの舞楽(ぶがく)を踊って奉仕する。
日本神話の「天岩戸(あまのいわと)」神話の天照大御神(あまてらすおおみかみ)を岩屋から出てもらう為に、天宇受売の命(あめのうずめのみこと)が岩屋の前で舞を舞ったのが神楽の起源、天宇受売の命が巫女の起源という。
須佐之男(すさのお)は
天照大御神(あまてらすおおみかみ)が
見過ごすことが出来ぬほどの
乱暴を、しでかしてしまった。
須佐之男(すさのお)は、
神に差し上げるための着物をおる
機織り場を持っていた。
命は、その屋根に登ると
皮をはいだ馬を投げ込んだのである。
驚いた機織り女は
逃げ惑ったあげく
機織り道具に体を貫かれて
死んでしまった。
天照(あまてらす)は
言葉も失って
天の岩戸(あまのいわど)という洞窟(どうくつ)に
身を隠すと、
扉を閉ざしたまま
出て来ようとは しなかったのである。
天照(あまてらす)は日の神である。
その神が姿を消してしまえば
世の中は真っ暗闇だ。
来る日も来る日も
夜の明けることはなく
辺りは墨を流したよう。
その闇につけ込んで
それまで息を殺していた悪い神々が
悪さを企むようになる。
国は見る間に乱れ始めた。
困り果てた高天の原(たかまのはら)の神たちは
ある、はかりごとをめぐらしたのである。
神々は暗闇の中で よく鳴く鶏を
岩戸(いわと)の前に集めて鳴かせた。
それから、鍛冶屋の神に矛(ほこ)を
鏡(かがみ)の神に鏡を
玉造りの神には 玉飾りを作らせた。
さらに、榊(さかき)の木を根こそぎにして
玉飾りや鏡を枝に結び
白や青の布で木を飾りたてた。
力持ちの神―天の手力男(あめのたぢからお)の神が
岩戸の陰で待ちかまえる。
まもなく天宇受売の命(あめのうずめのみこと)が進み出ると
岩戸の前に しつらえた舞台に登り
鶏の声に合わせて舞いを舞いはじめた。
天宇受売の命は、しだいに興(きょう)がのってくると
身に まとった服を脱ぎ捨て
我を忘れて踊り狂った。
神々は、その様子に手を打ち
膝(ひざ)を抱えて
笑い転げるのであった。
その騒ぎの、あまりの賑やかさに
岩戸(いわと)の中の天照(あまてらす)は、ふと
「何ごとだろう」
すき間から表をのぞいた。
天宇受売の命(あめのうずめのみこと)は声をかけた。
「あなたさまより、もっと尊い神が
ここに、つかわされましたので
わたくし共は それを喜んで
騒いでいるので ございます。
すきを見て
二人の神が天照(あまてらす)の前に鏡を突き出した。
なるほど、そこには世にも こうごうしい
神の姿が映し出されているではないか。
天照(あまてらす)が自分の姿とも知らず身をのり出すと、
天の手力男(あめのたぢからお)の神が天照(あまてらす)の手を取って
岩戸の外へ引き出した。
同時に別の神が天照(あまてらす)の後ろに廻って
しめ縄を張り、
二度と元へ戻れなくしてしまった。
このようにして世の中は
再び日の光を
取り戻したのであった。
あばれ者の須佐之男(すさのお)の命は
やがて高天の原(たかまのはら)を
追い払われることになるのである。
平清盛(たいらのきよもり)と日宋貿易(にっそうぼうえき)
武士は「武」をもって朝廷や貴族に仕えた。
白河上皇(しらかわじょうこう)が平氏を重用したのは、独立心の強い源氏より平氏の方が院に忠実な武士団に育て易いと考えたからだ。
西海道(九州地方)、南海道(和歌山・四国地方)の海上輸送に従事する武士が、平氏に従ったので瀬戸内海の掌握が始まり、日宋貿易(にっそうぼうえき)へとつながった。
宋政府は外国貿易を重要な財源として日本にも来航。
僧侶の中に、宋の皇帝に謁見する者もいた。
宋からは絹織物・陶磁器・薬品・書物・銅銭がもたらされ、日宋貿易へと乗り出した。
朝廷は太宰府(だざいふ)を貿易の拠点としたが、宋商人にとって不利な検問で密貿易が始まり、博多や平戸に貿易港ができた。
平清盛(たいらのきよもり)は武家出身の初めて太政大臣(だじょうだいじん)になった。
そして清盛は、宋船を福原(神戸)へ引き入れ、瀬戸内海を安全な貿易ルートに確立し独占した。
清盛と後白河上皇は対立し始め、平氏討伐の動きが出始め、福原遷都を強行したが貴族や寺院の反対で170日で都帰りとなった。
清盛が没すると平家は滅亡。
鎌倉幕府は日宋貿易を受け継ぎ、担い手は幕府や豊富な貴族・社寺だった。
禅とともに伝えられた文化、儒学・詩文・建築・水墨画などが、鎌倉独自の武家文化を開花させた。
『平家納経』(へいけのうきょう)
清盛が高野山に登った際、ある老僧が現れ、厳島神社を信仰すれば一門が繁栄する、と予言されたことが厳島信仰のはじまり。
都風、宮廷風の振るまいを指す「みやび」という言葉は、その優美で繊細、絢爛豪華さを表徴するもの。
平清盛(たいらのきよもり)が厳島神社に奉納した三十三巻の装飾経(そうしょくきょう)、一人一巻ずつ写経を行い経巻に豪華な装飾を施し完成させたもの。
一人ひとりが死後の極楽浄土を願い、仏と縁を結んだのが「結縁(けちえん)」と呼び、『平家納経』のような写経を「結縁経」と呼ぶ。
通常、能書の誉れ高い公卿(くぎょう)が清書するが、清盛自身の筆によるもので、願文の豊潤な筆致や筆運びの技法から技量の高さがみられ、清盛の能書家としても優れていることがわかる。
「提婆達多品(だいばだったほん)」のなかで、法華経の修行で八歳の龍女(りゅうにょ)が、法華経の功徳により成仏することができた。
龍神(りゅうじん)は古来、竜宮に住み、水神や海神として崇められていた。
平氏の財政基盤の「日宋貿易(にっそうぼうえき)」を推進するため、海上交通の安全を願い、水神を信仰。
法華経を書写することで、さらなる功徳を求めた。
千畳閣(せんじょうかく)豊国神社
豊臣秀吉が経堂(けいどう-お経を唱える所)として、建て始めたが途中で死去したので未完のまま残された。
太い柱や梁(はり)は、たくましい力強さを感じる。
沖や五重塔などの眺めも素晴らしく、しばらく座って旅の疲れがとれました。
弥山(みせん)
古来、日本では、形の美しい山を神霊の住まう場所と敬い、信仰の対象としてきた。
巨岩に覆われた頂上付近は「磐境(いわさか)」と呼ばれ、神の降臨する場所と信じられていた。
延暦(えんりゃく)二十五年(806)、唐から帰国して霊地をさがしていた空海(くうかい)は厳島に立ち寄った際、弥山が須弥山(しゃみせん-仏教の宇宙観の最高峰の聖山)に似ているから「御山」を「弥山」の字に改めた。
物忌み(ものいみ)
「物忌み」とは陰陽道(おんみょうどう)において凶兆凶事の際に一定期間、禁忌を守り、身を慎むこと。
古来、厳島はその島全体が聖域として崇められた。
江戸時代は、
五穀・野菜の栽培
木の伐採
犬を飼う(生息する鹿や猿は神の使いとされ驚かせないよう)
などを禁止。
出産した女性は100日間、島の外に出された。
遺体は島の外で埋葬、墓も無いことは現在も続いている。
血を不浄(ふじょう)とし厳島を戦場とした毛利元就(もうりもとなり)は汚れた島内を洗い清めている。
正岡子規(まさおかしき)
夏の宮島を訪れて句を残した。
汐満ちて鳥居の霞む入江哉
宮島の神殿はしる子鹿かな
きれいな朱色の大鳥居になったら、宮島に泊まって、弥山(みせん)までハイキングをして、ゆっくり楽しみたいな。
いや大鳥居が再生される前の方が静かで、宿の待遇も良いかな。
原爆ドーム
原爆ドームには30年以上ぶりです。
ここにも、たくさんの外国人が訪れていた。
外国の人たちには、新たに知る悲しい事実や、原爆の恐ろしさを感じているように思えた。
30年前は、こんなに近くから原爆ドームは見ることが出来なかったように思えるし、人も少なかった。
平和記念資料館には、今回入らなかった。
リニューアルオープンという事で、以前より立派になったような。
止まった時計、溶けた身体で水を求めて歩く人形たちなど、見るのはつらい。
ポーランドのアウシュビッツ収容所にも、足が向かない。