庭もほどんど見られないが、鮮やかな色彩の本堂が目を引く
本尊の十一面観音立像(じゅういちめんかんのん りゅうぞう)(国宝)がおられる金色の厨子(ずし)は閉ざされていた
辰年(たつどし)にしか拝観できない!?
など?
ごめんなさい(;’∀’)
I do not know.
お目当ての、空也上人立像は宝物殿で、しっかり観ました(*^▽^*)
他にも、定朝作とされる地蔵菩薩立像
運慶作とされる、地蔵菩薩坐像
どちらもスゴイ!
そして、平清盛像 学校の歴史資料本に載っていたような?!
その上に運慶・湛慶の親子像
運慶の顔がステキ(^_-)-☆
少し角張っているが、優しい目をしてる
空也上人立像(くうやしょうにんりゅうぞう)
重要文化財
鎌倉時代
運慶の四男康勝(こうしょう)の作
「踊躍念仏(ゆやくねんぶつ)」鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らし、踊りながら念仏を唱える
口から6体の阿弥陀仏の小像を吐き出してる
6体の阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の6字が仏と化した
空也上人、そのままの姿らしい
胸に着けた金鼓は念仏を唱える時にリズムを取る楽器
右手には、それを打ち鳴らす棒を持つ
左手には、鹿の角がついた杖
足元は草履
空也上人が可愛がってた鹿を漁師に殺され、鹿の角を杖にして
その鹿の皮を、衣にして生涯身につけていたという
地蔵菩薩坐像(じぞうぼさつ ざぞう)
重要文化財
鎌倉時代
運慶(うんけい)作
「夢見地蔵」と呼ばれる
運慶一族の菩提寺だった地蔵十輪院が焼けた時に救い出され六波羅蜜寺にきた
地蔵菩薩坐像を、お供のように運慶坐像と湛慶坐像が挟んで安置されていたらしい
地蔵菩薩立像(じぞうぼさつ りゅうぞう)
重要文化財
平安時代
伝定朝(じょうちょう)作
別名「鬘掛地蔵(かつらかけじぞう)」
びっくり(◎_◎;)お地蔵さんが長い髪をにぎってる
なぜ??
母を亡くした貧しい娘が母を弔ってやれないと なげいていると、一人の僧が現れ弔い埋葬してくれました
お布施の代わりに自分の髪を売って葬式費用にと僧に渡した
後に母と熱心に拝んでいた地蔵菩薩に参拝すると、僧に渡した髪が握られていたという
僧侶はお地蔵様の化身だった
という言い伝えがあるそうな
平清盛(たいらのきよもり)像
重要文化財
鎌倉時代
ちょっと怖い顔(‘_’)
でも
かっこいい!
平家一門の武運長久を祈願するために、血をほんの少し混ぜた朱墨で写経を行った頃、太政大臣となると同時に仏門に入っていたころの清盛の姿
運慶坐像(うんけい ざぞう)
重要文化財
鎌倉時代
東大寺南大門「金剛力士像」
横須賀 浄楽寺「阿弥陀三尊像・不動明王・毘沙門天立像」
横浜市 称名寺「大威徳明王像」
奈良 円成寺「弥勒菩薩坐像」
・・・・・など魅力的な造像を作成
湛慶坐像(たんけい ざぞう)
重要文化財
鎌倉時代
運慶の長男
三十三間堂の千体の千手観音立像は、湛慶が院派や円派の仏師も率いて造像したとされる
六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)
踊り念仏で知られる市聖(いちのひじり)空也が平安時代中期、十一面観音を本尊とし、当時は西光寺の名だった
空也は疫病が広がっていた京都で、観音像を引き車に乗せて歩き、念仏をとなえ、病人に茶をふるまって多くの人を救ったという
当時の鴨川(かもがわ)の岸は、遺体の捨て場だった
空也の死後、比叡山延暦寺の僧・中信が、六波羅蜜寺として再興
平安末期は平清盛(たいらのきよもり)により、塔頭は軍勢の駐屯所となった
平家が都落ちした際には本堂以外は炎上
源頼朝(みなもとのよりとも)などによって再興された
江戸時代までは大伽藍を連ねたが、明治維新の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を受けて縮小され今に至る
住所/京都市東山区五条通大和大路上ル東
拝観時間/8:00~17:00(受付終了16:30)
アクセス
🚌バス
JR京都駅 206系統→清水道→徒歩7分
🚃電車
京阪電車
清水五条駅→徒歩7分
阪急電車
河原町駅→徒歩15分