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ゆいゆい唯一 九体阿弥陀如来像(くたいあみだにょらいぞう) 浄瑠璃寺(じょうるりじ) 京都

投稿日:2021年5月2日 更新日:

浄瑠璃寺に初めて訪れた

南山城の代表的な浄瑠璃寺に期待に胸ふくらませて出かけた

整備中で、あちこちでトンカチ トンカチ、音がした

九体の中心、阿弥陀如来中尊像も修理で祀られていない
順々に九体の阿弥陀如来が修理に出されているようで、そろうのには2.3年かかるらしい
現在2021年春

代わりに秘仏の大日如来像と吉祥天女像が祀られていたから
よし!!

でも、整備され過ぎた浄瑠璃寺をみる前に訪れて良かった・・・?

久しぶりの ぼっとんトイレ!
ビクッ


西に、九体阿弥陀如来像(くたいあみだにょらいぞう)が祀られている『本堂』と
に、薬師如来(やくしにょらい)が祀られている『三重塔』が
池をはさんで、向かいあってます


京都の南、「南山城(みなみやましろ)」と呼ばれる、木津川沿いの地域にある美しい仏像を巡りたいと調べて効率的にと、はりきって向かったが一日ではムリ( ;∀;)

失敗して次への挑戦はハイキング

岩船寺から浄瑠璃寺(じょうるりじ)で、一日ゆっくり石仏も!

海住山寺(かいじゅうせんじ)から神童寺(じんどうじ)で、一日かなりハードなハイキング!になりそう

まだ、行ってない寿宝寺(じゅほうじ)と観音寺(かんのんじ)は一日で?
蟹満寺(かにまんじ)は?

浄瑠璃寺(じょうるりじ)


人里離れた当尾の山中にある

平安時代作の九体阿弥陀如来像とそれを祀る九体阿弥陀如堂(本堂)、四天王像、三重塔など南山城きっての国宝を有する浄瑠璃寺

薬師信仰と阿弥陀信仰という、平安時代の仏教信仰の実相をそのまま伝える唯一無二のお寺

浄瑠璃寺の「浄瑠璃」とは「浄(きよ)らかなラピスラズリ(神につながる石 パワーストーン)」という意味があり、薬師如来が統治する仏国土の名称「東方浄瑠璃世界」に由来

ちなみに古代社会ではラピスラズリに、類まれな薬効があると広く信じられていた

開基は奈良時代に大活躍した行基(ぎょうき)という伝承もあるが確証はない

平安期の1047(永承2)年に、義明上人が薬師如来を本尊として、在地の豪族だった阿知山太夫重頼(あちさんだゆうしげより)を壇那に、本堂を建立したという
創建当初は「一日で屋根を葺けた」というくらいなので、小さな規模に過ぎなかった

また、東方の山中にあった髄願寺(ずいがんじ)が「東小田原山寺」と呼ばれたのに対し、「西小田原山寺」とも呼ばれていたらしい

1150(久安6)年に、後に興福寺別当(管長)をつとめることとなる興福寺一条院の伊豆僧正恵信(1141-1171年)が、浄瑠璃寺を一条院の御祈所とし、かなり大規模な境内の改変に着手している。
そして、創建から百年以上経った1157(保元2)年、本堂に九体の阿弥陀如来像を配置した

さらに1178(治承2)年には、京都の一条大宮から三重塔が移築され、その中に創建当初の本尊だった薬師如来が祀られた
この時点でようやく、今私たちが目にする浄瑠璃寺の姿になった

浄瑠璃寺は興福寺との関係が強かった
奈良の興福寺と京都の延暦寺が並び称されるように、古代末期から中世末期に至る時期、興福寺の実力は強大
今でこそ京都府内に位置するとはいえ、地理的には奈良に近いことを考えれば、興福寺の傘下に入るのはごく自然な成り行きであった

しかし、明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の際、興福寺が徹底的な破壊をこうむり、真言律宗に転じて奈良西大寺の末寺となり、今日に至っている

本堂
九体阿弥陀堂(くたいあみだどう)


国宝

正面十一間、側面四間の本堂には、九体の阿弥陀如来坐像が安置されている

浄土の池を挟み、沈みゆく陽の光とともに阿弥陀如来を西に向かって拝めるよう、お堂は東向きに建てられている

浄瑠璃寺の九体阿弥陀は顕教系と密教系が入り交じっている
その理由は一説に、当初は中尊しかなかったが、改装された1107(嘉承2)年に八体が追加されたためだと言う

浄土三部経の一つ『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』
生きとし生けるものはその資質や功徳により
最低ランクの下品下生(げぼんげしょう)から、
最高ランクの上品上生(じょうぼんじょうしょう)までの九段階があり、
各々に応じて九種類の極楽往生できることになる
この説を具体的に造形化したのが、九体阿弥陀

九体阿弥陀を最初に造立したのは藤原道長(ふじわら-みちなが)であった
自邸を改造して造営した法成寺(ほうじょうじ)の境内に、無量寿院と呼ばれる九体阿弥陀堂を建立
その後、九体阿弥陀像を安置する九堂は、日本国内に三十以上も建立された
江戸時代の作例を除くと、浄瑠璃寺の他はすべて失われてしまった

九体阿弥陀如来像(くたいあみだにょらいぞう)

国宝
平安末期の造像
ヒノキ材の寄木造の漆箔(しっぱく)仕上げ

中尊は、周丈六(222.4㎝)
中央の阿弥陀如来像が顕教系(密教以外の仏教)の特徴である来迎印(西方極楽浄土から迎えにくる時の印)を結ぶ

他の八体は、半丈六(139~145㎝)
瞑想を表わす定印を結ぶ

かつて日本に三十以上造像されたと伝わるが、九体阿弥陀如の現存唯一

生前の心がけや努力によって、下品下生から上品上生まで九つの段階の往生があると説かれる
『観無量寿経』の教えにもとづき、九体の阿弥陀如来が祀られたものである

持国天立像(じこくてんりゅうぞう)

国宝
木造 寄木造
像高 169㎝
眼球は水晶を用いた玉眼(ぎょくがん)ではなく、木材から彫りだした彫眼(ちょうがん)
豪華な彩色文様と切金文は、各像当たり二十種にも及び、当初の色がよく残っている
藤原彫刻の頂点に位置する傑作と評価されている
十世紀末から十一世紀頃の制作という説が有力視
守護神四天王 東方を守護
梵語 ドゥリタラーシュトゥラ
国を支え持ち、大きな功徳がある

増長天立像(ぞうちょうてんりゅうぞう)

国宝
木造 寄木造
像高 169㎝
眼球は水晶を用いた玉眼(ぎょくがん)ではなく、木材から彫りだした彫眼(ちょうがん)
豪華な彩色文様と切金文は、各像当たり二十種にも及び、当初の色がよく残っている
藤原彫刻の頂点に位置する傑作と評価されている
十世紀末から十一世紀頃の制作という説が有力視
守護神四天王 南方を守護
梵語 ヴィルーダカ
諸々の龍衆を従えて、小さな種が大きく育つような、優れた生命力をもって仏教を守る

吉祥天像(きっしょうてんぞう)


重要文化財、秘仏、特別開帳あり
日本でいちばん美しい女神像として名高い
『浄瑠璃寺流記事』には鎌倉初期の1212(建暦2)年に吉祥天像を本堂に安置したという記事がある
女神像だけあってさすがに気高い
切れ長の眼と小ぶりの鼻と口で可愛らしい

不動三尊像(ふどうさんぞんぞう)

重要文化財
ヒノキを使った寄木造・玉眼
中尊の不動明王像 像高99.5㎝
向かって右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)
左に制多迦童子(せいたかどうじ)

九体の阿弥陀如来像の向かって右隅に安置されている
鎌倉末期の1300(応長元)年に建立された護摩堂(ごまどう)の本尊と考えられている
作者については慶派仏師の康円(こうえん-1207-1275年以降)の説がある
九世紀に天台密教の安然(あんねん)が説き、十世紀末に飛鳥寺玄朝が造形化に成功した「十九観(不動明王の特徴を記した書物)」にしたがい造像されたもので、個人的な要望を叶える護身仏としての性格が強い。

口から鋭い牙を露出させるなど、醜悪な容貌の持ち主
引き連れる二人の童子は、小心者の矜羯羅(こんがら)と悪辣(あくらつ)な制多迦(せいたか)は可愛いい

大日如来像(だいにちにょらいざぞう)

平安末期~鎌倉時代

智拳印(ちけんいん)を結ぶ金剛界の大日如来
慶派の仏師の作と推定される

三重塔(さんじゅうのとう)

本尊 薬師如来座像(やくしにょらいざぞう)

創建 1047(永承2)年
本尊 薬師如来座像(東の本尊)、
九体阿弥陀如来像(西の本尊)
宗派 真言律宗
住所 木津川市加茂町西小札場40
拝観時間 9:00-17:00
(12~2月は10:00-16:00)
2021年時

アクセス

京都駅 JR奈良線→木津駅→加茂駅(35分)
大阪駅 JR関西本線(大和路線)→木津駅→加茂駅(60分)
大阪駅 JR関西本線(大和路線)→木津駅→加茂駅(8分)

JR加茂駅 東口バス停 10番加茂の山行き
1時間に1本、14分と決まってる 2021年

20分程

浄瑠璃寺

南山城とは、山城国内の南の地域

「山城」という言葉は「山背」とも書かれることからわかるように、「やまうしろ」が語源

大和政権が営まれた奈良盆地から見ると、その北端に連なる平城山(ならやま)の「うしろ」に位置していることに由来する
現在の木津川市山城町あたり、つまり京都盆地の南端の部分が本来の「山城」だった
ここに聖武天皇によって恭仁京(くにきょう)(740年)が建設

律令時代になると、京都盆地全体が「山城」とみなされ、本来の「山城」は、「南山城」と呼ばれるようになった

この地域を流する木津川は、古墳時代から水上交通路として使われ、恭仁京と平城京の建設にあたっては、木材の運搬にきわめて重要だった

木津川とは、文字通り「木(材)の津」、すなわち木材運搬の港を意味する

かなり早い時期から渡来人の居住地があった
その中心は「高麗(こま)氏」
「高麗(こま)」は、中世の朝鮮半島を支配した高麗王朝(918-1392年)ではなく、古代の高句麗王朝(?-668年)を指している
『日本書紀』には、570年に来日した高句麗の外交使節が、「山城国相良(さがら)郡の館に滞在した」と書かれていて、すでに外交使節を迎えるにふさわしい立派な施設があった

また『日本霊異記(にほんりょういき)』には、山城国相良郡内に高麗寺(廃寺)があり、住僧の栄常(えいじょう)は『法華経』をつねに読誦(どくじゅ)していたと記されてる
高麗寺の創建は飛鳥時代にまでさかのぼる
南山城における高句麗系渡来人の活動は、日本に仏教が伝来した頃から始まっていた可能性が高い

恭仁京の跡地には、山城国分寺が置かれた

恭仁京の右京の南端にあった神雄寺(かみおでら)という巨大な寺の跡地と推定されるが、こららの寺々は、高麗寺と同じようにいつしか廃寺となってしまい現存しない

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