遍照寺(へんじょうじ) 廣澤山(ひろさわやま)
Henjyo-ji Temple
名仏師 定朝(じょうちょう)の父、康尚(こうしょう)の一木造(いちぼくづく)り
十一面観音立像(じゅういちめんかんのんりゅうぞう)を見に出かけた
遍照寺(へんじょうじ)は、京都市の右京区にある小さなお寺ですが・・・・・
平安中期(989)宇多(うだ)天皇の孫、寛朝僧正(かんちょうそうじょう)の寺院
広沢(ひろさわ)池を庭とし
多宝塔(たほうとう)・釣殿(つりどんお)・八角堂(はっこくどう)等ある広大な寺院
右京の大寺院、大覚寺(だいかくじ)と仁和寺(にんなじ)と肩を並べてたが
応仁(おうにん)の乱で廃墟(はいきょ)となった
明日(毎月28日10時より)
不動明王(ふどうみょうおう)護摩供(ごまく)があり
支度に忙しい中、僧侶(そうりょ)が、たった一人の拝観にも、遍照寺の歴史などを丁寧に話してくださった
お話一
円融天皇(えんゆうてんのう)が重病のとき
寛朝僧正が祈願(きがん)すると、不動明王が現れ、あっというまに治った
お話二
夕方、寛朝僧正が追剥(おいはぎ-強盗)におそわれたが、足げり退治して、逃がしてあげた
お話三
陰陽師(おんみょうじ)安倍晴明(あべのせいめい)が寛朝僧正を訪ねたとき
若い僧が安倍晴明に「呪術(じゅじゅつ)を見せてくれ!」
一枚の葉をカエルに落とし、カエルをつぶして見せた
お話四
中秋の名月、具平親王(ともひら しんのうー村上天皇の子)が、大顔とお忍びデート遍照寺に
突然、大顔が発狂急死
具平親王の又兄妹の紫式部(むらさきしきぶ)の源氏物語(げんじものがたり)「夕顔(ゆうがお)」の、もととなった
康尚(こうしょう)は平安時代中期の仏師(ぶっし)「仏師職の祖(そ)」
遍照寺には、一木造(いちぼくづく)りの最後の方の作品が2点
不動明王坐像(ふどうみょうおうざぞう)と
十一面観音立像(じゅういちめんかんのんりゅうぞう)がある
一木造(いちぼくづく)りなので、思ったより小さい
そして、重要文化財なので手にとるような近さでは見ることができない
2点とも体は、真っ黒だが
不動明王坐像(ふどうみょうおうざぞう)は、まっか赤
十一面観音立像(じゅういちめんかんのんりゅうぞう)は、まっきん金
だったそうだ
不動明王坐像の持っている縄のような羂索(けんさく)と剣(けん)
そして
十一面観音立像のバックの円の光背(こうはい)と
手に持つ蓮(はす)の花が入った花びんと
ネックレス瓔珞(ようらく)は、美しい金色
無くなって(こわれて)いたので、近代に修正して加えたようだ
体はボリューム感があって体奥も深く平安前期風
伏し目がち おちょぼ口 卵形の、おっとりした顔が特徴的
当時の貴族の好みだった?
金色の十一面観音立像(じゅういちめんかんのんりゅうぞう)は
広沢の池のほとりから反橋(そりばし)を渡り、観音島の観音堂に祀られていた
一木造(いちぼくづく)り
頭をふくんだ像の中心部分を一本の材木から掘りだすつくり方です。
足りない部分には別の材木をつぎ足します。
木の芯(しん)に近い部分をのぞいたり、重さを軽くしたりするために、背中や像の底に窓をあけて中をくりぬくことがあります。
背中みたいに、見えるところに窓をあけた場合には、別の材木でつくったふたをつけます。
2月の花のないときに行ったが
3月~木瓜(ぼけ)
4月~木蓮(もくれん)
山吹(やまぶき)
牡丹(ぼたん)
6月~紫陽花(あじさい)
7月~蓮(はす)
9月~藤袴(ふじばかま) 豹紋蝶(ひょうもんちょう)が飛来
精霊流し
大文字焼きの毎年八月十六日
広沢池(ひろさわのいけ)
申し込み→遍照寺
名月や 池をめぐりて 夜もすがら 芭蕉
JR「京都駅」→ 地下鉄烏丸線「丸太町」下車→市バス93系統 約25分→ 「広沢御所ノ内町」→ 徒歩約5分
京阪「三条」市バス11系統→ 約1時間 → 「広沢御所ノ内町」→ 徒歩約5分
京都市右京区嵯峨広沢西裏町14