出石(いずし)は、兵庫県豊岡市にあり「但馬(たじま)の小京都」と呼ばれ、出石藩の城下町だった。
よく整備された街並みが、ほのかに色づき、気持ちよく歩きました。
出石(いずし)城跡→10分→有子山稲荷神社(ありこやまいなり-出石の町並みを一望)→10分→辰鼓楼(しんころう)→10分→出石明治館→5分→宗鏡寺(すきょうじ)→45分→出石神社→50分→徳利窯(とっくりがま)→20分→おりゅう灯籠(とうろう)→3分→永楽館(えいらくかん)
出石(いずし)城跡
出石城以前の、山名氏によって建てられた有子山城は、わずか6年で落城。
1604年小出吉英によって築かれた一国一城の但馬(たじま)唯一の城。
城主は、小出氏、松平氏、仙石氏と続き、明治の版籍奉還まで但馬の第一の藩だった。
大泥棒「石川五右衛門」を捕まえ、豊臣秀吉の家臣団では最も早く大名に出世した、出石藩主 仙石秀久(せんごく ひでひさ)を祀る感応殿がある。
有子山稲荷神社(ありこやま いなりじんじゃ)出石の町並みを一望
出石城の本丸のさらに上にあり、城の鎮守である。
城郭内にありながら、江戸時代から身分に関係なく参拝できた。
37基の鳥居、157の石段を上がった右手に稲荷があり、その奥に社殿がある。
辰鼓楼(しんころう)
時計台に改修されたのは明治14年。
辰の刻(たつのこく-7時~9時)の城主登城を知らせた。
藩の医者だった池口忠恕(ちゅうじょ)が大病になった時、地域の人が祈願してくれ、お礼に私費でオランダ製の時計を藩に贈った。
現在のは、平成29年に修復されたもので、午前8時と午後1時に、太鼓が鳴る仕組みになってる。
時計の針は1メートル。
出石明治館(いずし めいじかん)
宗鏡寺(すきょうじ)通称は沢庵寺(たくあんじ)
1392年、山名氏菩提寺として建てられた。
荒廃した寺を沢庵和尚が再建した。
沢庵和尚は、出石生まれ、たくあん漬けを広めたといわれている。
出石神社(いずしじんじゃ)
但馬国の一の宮と尊ばれている。
出石の市街地から北に、2キロメートル徒歩で40分の位置にある。
縁結び、子授けのパワースポット!
出石一帯は泥海だったが、天日槍(あめのひほこ)は岩山を切り開き濁流を日本海に流し、土地を豊かに造りかえた。
さらに天日槍(あめのひほこ)は、鉄の殖産興業に力を注いだそうな。
「治水の神様」と称され、数々の土木工事に関わった、但馬出身の沖野忠雄の碑があった。
徳利窯(とっくりがま)ボトルオープン釜
ボトルオープン釜は、18世紀にイギリスで生まれた昇炎式の陶器窯。
日本では、外套窯(がいとうがま-コートをかぶったような)と呼ばれた。
窯のメンテナンスがむずかしいのと、生産性が悪いせいで、20年程で使わなくなったようだ。登り窯はテレビなどで見たことはあるが、こんなのは初めてで、ぶっちょいボトルに、丸や四角の模様が、うまく重なっていて可愛い。
山の麓に、かくれたように立っている。
おりゅう灯籠(とうろう)
出石の豪族の優れた侍と、豪族の屋敷に奉公していた美しい娘おりゅうは、身分違いの恋に落ちたが、引き裂かれた。
そんな時、蒙古襲来の防衛のために若者は、九州に旅立ち戦死した。知らせがあった数日後おりゅうは、出石川に浮かんでいた。
大雨のたびに出石川は氾濫しおりゅうの悲しみの涙だと語られ、船着き場におりゅうを供養し、出石川のふもとに灯籠が建てられ「おりゅう灯籠」と呼ばれるようになった。
永楽館(えいらくかん)
時は流れ永楽園を懐かしむ声があがり、大改修され、44年後の平成20年(2008年)によみがえった。
床の丸い切り抜きが回転し、舞台転換の大道具の準備などに使用し、舞台の下の奈落で、人が廻す。
セリ
回り舞台の一部が上下する仕組みで、役者の出入りに使う。
花道の下の通路で役者を乗せ、人力で担ぎ上げる。
主に幽霊や妖怪などが登場する時に使う。
鳥屋(とや)
花道のつき当たりにあり、役者が出番前に精神を集中させる大事な場所。
舞台の上横手の小部屋で、義太夫{ぎだゆう-江戸前期に竹本義太夫が始めた浄瑠璃(じょうるり)の一つ 太ざおの三味線(しゃみせん)を使って語る}の演奏時には、床が前方にせり出す。
囃子場(はやしば)
三味線や太鼓などで、出囃子(でばやし)などを演奏する部屋。
出石そば
出石焼の小皿に盛り付け、独特の「出石皿そば」を創り、今日に受け継いでるそうな。
出石皿そばの食べ方
①つゆを、お猪口に注ぎ、つゆの旨みを味わう。
②そばとつゆだけで麺を味わう。
③薬味として、ネギ・わさびで味わう。
④山芋・卵でGOOD
⑤そば湯で締める。ごちそうさま。
もう少し出石の市街地を、ゆっくり巡りたかった。
一番の目的、出石皿そばを食べ大満足。
5皿が一人前で、1皿追加しただけだが、そば湯でおなかがふくらみ、歩くのが苦痛になってしまった。
また機会があれば、やっぱり、そば かな‥‥