ウォーキング旅

古い都 出石 あるき&ぜったい出石そばを食べるぞ!

投稿日:2018年10月31日 更新日:

 

出石(いずし)は、兵庫県豊岡市にあり「但馬(たじま)の小京都」と呼ばれ、出石藩の城下町だった。
よく整備された街並みが、ほのかに色づき、気持ちよく歩きました。

出石(いずし)城跡→10分有子山稲荷神社(ありこやまいなり-出石の町並みを一望)→10分→辰鼓楼(しんころう)→10分→出石明治館→5分宗鏡寺(すきょうじ)→45分出石神社50分→徳利窯(とっくりがま)→20分→おりゅう灯籠(とうろう)→3分→永楽館(えいらくかん)
出石map

出石(いずし)城跡

出石城以前の、山名氏によって建てられた有子山城は、わずか6年で落城。
1604年小出吉英によって築かれた一国一城の但馬(たじま)唯一の城
城主は、小出氏、松平氏、仙石氏と続き、明治の版籍奉還まで但馬の第一の藩だった。

大泥棒「石川五右衛門」を捕まえ、豊臣秀吉の家臣団では最も早く大名に出世した、出石藩主 仙石秀久(せんごく ひでひさ)を祀る感応殿がある。

有子山稲荷神社(ありこやま いなりじんじゃ)出石の町並みを一望

出石城の本丸のさらに上にあり、城の鎮守である。
城郭内にありながら、江戸時代から身分に関係なく参拝できた。
37基の鳥居、157の石段を上がった右手に稲荷があり、その奥に社殿がある。

 

 

辰鼓楼(しんころう)

辰鼓楼江戸時代は、山上にあった寺が藩からの給付金で、鐘を鳴らし時間を知らせていたが、廃藩置県で給付されなくなり、明治4年に太鼓を叩いて時間を知らせる、楼閣(ろうかく)が建てられたそうな。
時計台に改修されたのは明治14年。
辰の刻(たつのこく-7時~9時)の城主登城を知らせた。
藩の医者だった池口忠恕(ちゅうじょ)が大病になった時、地域の人が祈願してくれ、お礼に私費でオランダ製の時計を藩に贈った。

現在のは、平成29年に修復されたもので、午前8時と午後1時に、太鼓が鳴る仕組みになってる。
時計の針は1メートル。

出石明治館(いずし めいじかん)

 

宗鏡寺(すきょうじ)通称は沢庵寺(たくあんじ)

1392年、山名氏菩提寺として建てられた。
荒廃した寺を沢庵和尚が再建した。
沢庵和尚は、出石生まれ、たくあん漬けを広めたといわれている。

出石神社(いずしじんじゃ)

通称は「一宮さん(いっきゅうさん)」。
但馬国の一の宮と尊ばれている。

出石の市街地から北に、2キロメートル徒歩で40分の位置にある。

縁結び、子授けのパワースポット!

天日槍(あめのひほこ)、出石八前大神(いずしやまえのおおかみ)の神霊を祀っている。

出石一帯は泥海だったが、天日槍(あめのひほこ)は岩山を切り開き濁流を日本海に流し、土地を豊かに造りかえた。
さらに天日槍(あめのひほこ)は、鉄の殖産興業に力を注いだそうな。

『日本書紀』新羅の王子の天日槍(あめのひほこ)が渡来、八種の宝物を天皇に貢献し、但馬国に落ち着き、御出石県主(みずしあがたぬし)天太耳命(あめのふとみみ)の娘、麻多烏命(またお)を妻として、天諸杉命(あめのもろすく)=但馬諸助(たぢまのもろすく)が生まれ、孫は田道間守(たぢまもり=多遅摩毛理)お菓子の神さまで「中嶋」と呼ばれ、多くの神社がある。

『古事記』新羅の沼で赤い玉が生まれ、玉は美しい娘に変身、娘 阿加流比売(あかるひめ)は、天之日矛=天日槍(あめのひほこ)の妻となり、毎日美味しい料理を作っていたのに、機嫌をそこねた天之日矛は妻をののしったので、怒って実家の日本に小舟で帰ってしまい難波で暮らした。天之日矛は追って日本に来たが、海の守護神に阻まれ、やむなく但馬(出石)に上陸したそうな。

神さま伝説は『日本書紀』と『古事記』では、同じ人物なのに、名前や伝説が異なるので、ややこしい。

「治水の神様」と称され、数々の土木工事に関わった、但馬出身の沖野忠雄の碑があった。

 

徳利窯(とっくりがま)ボトルオープン釜

ボトルオープン釜は、18世紀にイギリスで生まれた昇炎式の陶器窯
日本では、外套窯(がいとうがま-コートをかぶったような)と呼ばれた。
窯のメンテナンスがむずかしいのと、生産性が悪いせいで、20年程で使わなくなったようだ。登り窯はテレビなどで見たことはあるが、こんなのは初めてで、ぶっちょいボトルに、丸や四角の模様が、うまく重なっていて可愛い。
山の麓に、かくれたように立っている。

おりゅう灯籠(とうろう)

鎌倉時代中期、出石川は町のまん中を流れ、日本海から三十石船が入ってくるほど広かったそうだ。
出石の豪族の優れた侍と、豪族の屋敷に奉公していた美しい娘おりゅうは、身分違いの恋に落ちたが、引き裂かれた。
そんな時、蒙古襲来の防衛のために若者は、九州に旅立ち戦死した。知らせがあった数日後おりゅうは、出石川に浮かんでいた。
大雨のたびに出石川は氾濫しおりゅうの悲しみの涙だと語られ、船着き場におりゅうを供養し、出石川のふもとに灯籠が建てられ「おりゅう灯籠」と呼ばれるようになった。

永楽館(えいらくかん)

近畿最古の芝居小屋の出石永楽館は、明治34年(1901年)に開館、大衆文化の中心として大変栄えたが、映画やテレビの普及により昭和39年(1964年)に閉館。
時は流れ永楽園を懐かしむ声があがり、大改修され、44年後の平成20年(2008年)によみがえった。

回り舞台、奈落(ならく-舞台床下にあるスペース)、花道(はなみち-舞台の下手にある通路)が、当初のまま残されていて、今も公演の時に使用しており、公演のない時には、一般見学できるようになっている。

回り舞台
床の丸い切り抜きが回転し、舞台転換の大道具の準備などに使用し、舞台の下の奈落で、人が廻す。

セリ
回り舞台の一部が上下する仕組みで、役者の出入りに使う。

スッポン
花道の下の通路で役者を乗せ、人力で担ぎ上げる。
主に幽霊や妖怪などが登場する時に使う。

鳥屋(とや)
花道のつき当たりにあり、役者が出番前に精神を集中させる大事な場所。

太夫座(たゆうざ)
舞台の上横手の小部屋で、義太夫{ぎだゆう-江戸前期に竹本義太夫が始めた浄瑠璃(じょうるり)の一つ 太ざおの三味線(しゃみせん)を使って語る}の演奏時には、床が前方にせり出す。

囃子場(はやしば)
三味線や太鼓などで、出囃子(でばやし)などを演奏する部屋。

出石そば

四代 政明公は大変な「そば」好きで、お国替えで出石に入った際、信州一の蕎麦打ちを伴い「そば」を出石に広めた。
出石焼の小皿に盛り付け、独特の「出石皿そば」を創り、今日に受け継いでるそうな。
わさびに砂糖を加えてすると、辛さが増すんだって‥‥ビックリ

そば湯

そば湯

出石皿そばの食べ方
①つゆを、お猪口に注ぎ、つゆの旨みを味わう。
②そばとつゆだけで麺を味わう。
③薬味として、ネギ・わさびで味わう。
④山芋・卵でGOOD
⑤そば湯で締める。ごちそうさま。

もう少し出石の市街地を、ゆっくり巡りたかった。

一番の目的、出石皿そばを食べ大満足。
5皿が一人前で、1皿追加しただけだが、そば湯でおなかがふくらみ、歩くのが苦痛になってしまった。
また機会があれば、やっぱり、そば かな‥‥

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